ってことで、前回薬物中毒者の日常
って記事を書きました。んで僕の場合宗教の施設で修業的なことをして、断ち切ったわけです。
ですので、そこの施設には(いろいろありましたが)薬物を断ち切れた部分では感謝してます。
で、今回宗教の必要性について私見を述べたいと思います。
宗教とは道徳を伝える機関だと思ってるんですよ。
奴隷に休みがなかった時代に日曜日を作って奴隷を休ませたり、
お母さんが『これやっちゃだめよ』っていうよりも、『悪いことしたら、天国に行けないよ』と言えば説得力が増しますし。
他にも、日本の寺では住職が『あそこの息子は独身かい? じゃー俺が誰か紹介してやるか』や『あいつ仕事してないのか、じゃー紹介してやるか』てきな、地元の大将的な役割とか。
有事の際に泊まる場所の提供や寺子屋みたく場所を貸したりしてましたよね。
ですので、そのころまでは、機関として宗教施設は有効だったと思ってます。社会的に必要とされてました。
でも、今はどう? って聞かれるとですね。
役割を全うしてないなと思ってます。(全うしづらくなってるかな)
僕が救われたのは爺さんが信者だったからなんですね。
これが誰でも受け入れる体制ならと思うんです。
正直宗教関係者ってその宗教に関しては勉強してますが、世間知らずなんですね。
なので、外部の人を受け入れられないんじゃないかと。
2011年の3/11の時には知られてないだけですごく復旧に尽力した人がいたし、家がなくなった方々を受け入れたので可能性はあるんですが。
(↑これは評価されるべきだと思う)
基本、お金の問題が出てきてるんですね。
オウム以降はやりづらくなってますし。
現状必要性があるかっていうことに関してはほとんどないと思っちゃうんです。
ですが、可能性としてですね。
・心のよりどころにしてる人も多いと思います
・孤独な老人とか、育児で悩んでる母親、ニートを抱えてる家庭など、需要はあると思います。
なので、そういった方を受け入れる土壌ができたら、必要性って出てくるかなぁと。
時代に対してやってることが古いのだと思います。
僕が宗教をお勧めできない理由としてですね。
真面目な人が100人いても、その上にダメな人がいたら無意味になってしまう。
これは、真面目な信者さんが月に1万円お供えするとしますよね。
でも、その上にいる人が100万円無駄遣いしたら意味がなくなっちゃいますよね。
これは税金にも言えるんですが。
その、無駄遣いをしちゃう人の比率が多くなっちゃうんです。仕組みとして。
一円単位でおかねを管理して、お金の使い道をクリーンにすればいいのになぁと思います。
その点は、もしかして電子決済でお供えするようになって、全部のデーターが信者さんに分かる仕組みができればいけると感じます。
もともとの部分で僕自身神様っていない。もしくはいたとしても一般的に想像されるような善の存在ではないと思ってるのです。
なので、今回は仕組みとしての宗教だったり、機関としての宗教論になってしまいました。
それでは、最後まで読んでいただきありがとうございました。
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